グループで聖書を読むと教えられることの多い理由

一人で聖書を読んでいるよりも、グループで読んで分かち合うときのほうが教えられることが多くあります。また、心により深く刻まれる経験をします。それは、なぜなのでしょうか。その理由を考えてみました。

1 聖書の持つ意味が豊かであるため

写生会のたとえ

 グループで聖書を読むというのは、写生会に似ていると思います。同じ風景を見ているのですが、描く人によって多少の違いが出てきます。木の葉の色の濃淡に敏感でそれを描く人、山の輪郭を正確に描く人、全体の印象を捉えて描く人。誰か一人が正しくて、他の人が間違っているのではなく、視点や感性の違いが補い合って、真の風景に近づいていきます。グループで聖書を読んで参加者が分かち合うとき、それぞれの視点や感性でとらえたことを持ち合い、補い合って、グループとして聖書箇所の豊かな意味に近づいていくのではないかと思います。

 

解説の必要性

 ただし、福音書を例に取れば、2000年前のパレスチナを舞台にしていますので、多少の解説が必要です。たとえば、「心の貧しい者」や、「天の御国」などは、普通に読んだ印象に頼ると誤解が生じます。当時のユダヤ人のメシア観やユダヤ戦争などの歴史的な背景を知ること、また、その書の構造と聖書全体の流れを理解することも、特定の箇所をより良く理解するために必要です。しかも、古典や考古学の新しい発見、そして聖書学の進展があり、聖書の知識は年々新たにされてより正しい解釈に近づいているので、アップデートも必要です。

 

手引の解説と参加者の共同作業

 聖書を読む会の手引の脚注やコラム、また「まとめ」は、そのような聖書の専門家から学んだ解説です。それは、読む人々の誤解を最小限にし、理解を助けるためにあります。そのような解説は、絵にたとえれば、風景の輪郭のようなものかもしれません。輪郭がしっかりしていれば、大きく誤った絵を描くことにはなりません。しかしそれでも、それは輪郭にすぎません。陰影や色合いをグループで補う必要があるのです。別の表現をすれば、手引を使って聖書を読むのは、聖書の専門家を含む共同体による作業であり、その結果、聖書箇所の持つ意味の豊かさに近づいていくのではないかと思うのです。

 

共同体として解釈する 

 考えてみますと、旧約聖書の多くの部分は、神の民という共同体に語られてきました。そして、歴史を通して、信仰者の集まりである礼拝で朗読されて解き明かされてきました。新約聖書以降の時代は、神は聖霊によって共同体である教会の解釈を導いてこられたのだと思います。それは、古代の公会議から始まり、現代の学会、教派の神学的検討、そして、スモールグループに至るまで、当てはまるのではないでしょうか。聖書の意味の豊さを、互いに謙遜に耳を傾ける共同体が共に味わっていくというのが、あるべき姿のように思います。

2 応答(適用)が多様であるため

  聖書箇所の意味は豊かであっても基本的に一つです。しかし、21世紀の日本に生きる私たちが、そのメッセージにどのように応答していくのかには、幅があります。他の方々の応答を聞くことで教えられ、自分もそのようにしたいと思います。あるいは、様々な応答の仕方があるのだと気がつきます。

 グループで聖書を読むときに教えられることの多い第二の理由は、他の人のみことばへの応答(適用)に触れて刺激を受けること、また応答が多様であることです。

3 言葉にすることで明確になり、心に刻まれるため

 私たちは何かを直感的に感じても、それは通常ぼやっとしていて、まもなく忘れてしまいます。しかし、それを人に伝えようと言葉にすると、感じたことがはっきりしてきて、しかも忘れにくくなります。

 グループで聖書を読むときに教えられることの多い第三の理由は、気がついたこと、教えられたことを言葉にすることで、それが整理され、明確にされ、また、心に深く刻まれるからだと思います。

最後に

 聖書は、旧約聖書の時代から神の民に与えられ、礼拝で朗読されて解き明かされてきました。神は聖霊によって共同体である教会の解き明かし(解釈)を正しく導き、神のことばに応答するよう励ましてこられました。個人で聖書を読むことは大切ですが、グループで読むときの豊かさを、改めて味わっていきたいと思います。


参考にした講演

上記の文章の一部は、福田崇先生と水口功先生の講演を参考にしています。それぞれ素晴らしい内容ですので、ご覧ください。